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2021-01-02更新

福山上水道 むかし話。

普段何気なく使ってる 水道っていつからあるの?

昔 むか~しの物語。

まずは 福山築城の お話から、、、

福山城の歴史でーす。
徳川幕府から西国鎮護の拠点として譜代大名・水野勝成が1619年(元和5年)、備後10万石の領主として入封し、1622年(元和8年)に完成した城です。
1873年(明治6年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊されました。さらに1945年(昭和20年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失することとなりましたが、その後、1966年(昭和41年)に市制50周年事業により天守閣と御湯殿、月見櫓が復元されました。

水野勝成(みずの かつなり)
永禄7年(1546年生)
三河国刈谷の城主 水野忠重の長男
徳川家康の従兄弟

徳川幕府から西国鎮護の拠点として
1619年(元和5年)、備後10万石の領主
として入封しました。そして

1622年 福山城 築城

勝成の功績といえば

〇 地子銭、諸役を免除して商工業者を入れ町を造成
〇 城下に上水道を敷設(日本三大上水道)
〇 引野、深津などで新開の築調
〇 瀬戸池、春日池、服部池などのため池の築成(備後三大池)
〇 イ草、畳表の生産奨励
〇 干拓地に 綿の栽培
〇 全国に先駆け 藩札を発行(商品経済基盤の確立)
〇 能、俳諧、二上踊、とんど等 福山の文化奨励

慶安4年 (1651年)88歳で没し菩提寺賢忠寺に葬る

功績の中でも 上水道の敷設が、最も重要で後の発展につながったと思いますね。

 

そんな お話を少ししてみましょう。

福山藩初代藩主水野勝成は福山城の築城とともに城下町を造ります。これにより多くの人が移り住みましたが、当時城下町では飲料水を手に入れることが困難でした。

芦田川河口の三角州上に城下町が造られたため、井戸を掘っても塩気・鉄気などを含んだ水しか出てこなかったからです。そこで勝成は井戸に代わり上水道の整備に力を注ぐことにしたのです。

芦田川から吉津川を通じて引き込まれた用水は貯水池の蓮池(どんどん池)に蓄えられました。ここで ごみやほこりを沈殿させた水を上水道に活用したのです。
城下町にある侍屋敷や町方には、道の中央に溝を掘ることで上水道が通されました。しかしこの溝は往来や商売の妨げになったことから、石の溝蓋を被せて暗渠(地下水路)にされました。


総延長 2800mに及びます

神田上水、近江八幡水道、赤穂水道、中津水道に次ぐ
全国で5番目という歴史を誇ります。前述の神田上水、赤穂水道と ともに 「日本三大水道」と呼ばれるくらい 整備されていました。

蓮池(どんどん池)

蓮池記念碑

立派な町ができても 水なくしては町の
繁栄はありません。戦前まで活用された
福山水道。
近代水道の敷設されるまで 年月を経て
なお大干ばつにも枯れることなく 広い
地域の農地を潤し、人々の生活飲料
として豊かな恵みをもたらしてきました。

ふだん何気なく使っている水道も 先人たちの

知恵と苦労のお陰ですよね。

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